へぇー!そうなんだ・・・。と言うか、なんの為に公開するのかのう。この公開のコンセプトって一体、何なのか?「我々は、腐敗した貴族体制を倒したのだ!」見たいな感覚なのかのう?それとも、善行、悪行にこだわらず、隠蔽された歴史の開放みたいな感じなのかのう・・・。
うーむ。よく分かりませぬな。でも、こうして記事を見ていると、哀れに思いまするな。この皇帝は、死の瞬間に何を思ったのでござろうか。
まぁ、ウィキペディアかなんかで調べてみたら?
冷たいでございますな。
■大戦、革命、そして最期
1914年6月、サライェヴォ事件が起き、7月28日にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライへ圧力を掛けた。ニコライとドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を7月31日に布告して、汎スラヴ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端をひらいた。ドイツ語風の名をもつ首都サンクトペテルブルクもペトログラードと改められた。
しかし1915年春に、近代兵器を擁するドイツに大敗を喫して戦況が悪化し「大退却」を余儀なくされると、同年9月5日、皇帝は、ラスプーチンの予言もあって、ほとんどの閣僚が反対したにもかかわらず、叔父にあたる司令官ニコライ大公を罷免し、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執った。しかし、これは他の連合国から信頼の厚かったニコライ大公に代わるもので必ずしも好評ではなかった。ただし、1916年6月の浸透戦術を用いたブルシーロフ攻勢では辛くも勝利をつかんでいる。
皇帝不在の都ペトログラードでは、ニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導していたが、気に入らない人物を次々に罷免するなど失政が目立った。人気のなかった2人に対して、貴族から民衆までが“ドイツ女”“怪物”と蔑んで憎悪の対象とした。皇后とラスプーチンの肉体関係さえ噂され、皇帝の権威はさらに失墜した。
ロマノフ家に対する批判的機運が高まったことから、保守派は帝政を救おうとしてニコライの譲位を画策した。1916年12月、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公らによって暗殺されたが、皇帝は孤立の度合いを深めるばかりであった。
1917年1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起した。軍隊の一部も反乱に合流し、ロシアは完全に混乱に陥った。ロシアが近代的な総力戦を継続することは限界に達していたのである。
こうした状況下、アレクサンドル・ケレンスキーが指導する二月革命が起こり、3月8日にはペトログラードで暴動が起こると、ニコライは首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じ、秩序回復のために大本営から首都にむけて軍をさしむけた。しかし、内閣は辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝に廃位を要求した。1917年3月15日(露暦3月2日)、ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によってプスコフで退位させられた。このときニコライは、本来後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った。しかし、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに300年つづいたロマノフ朝は幕を閉じた。露暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁された。皇帝一家をイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴィエトを中心として反対論があり、同年8月、皇后や5人の子どもとともにシベリア西部のトボリスクに流された。
ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、イパチェフ館に監禁された。一家は厳しく監視されていたが、たがいに協力しあって生活を送った。
しかし、チェコ連隊の決起によって白軍がエカテリンブルグに近づくと、ソヴィエト権力は皇帝が白軍により奪回されることをおそれ、1918年7月17日、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けたチェーカー次席のヤコフ・ユロフスキー率いる処刑隊が、皇帝一家7人と従者3人、侍医1人をイパチェフ館の地下で銃殺した。遺体はただちに焼却されて付近の塩山に埋められた。
ソビエト連邦崩壊後の1994年、発見された遺体が本人たちのものであることが確認され、2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖された。
■死後
皇帝一家の最後の状況については長年さまざまな噂が流れていた(“5番目の皇女”がいる、皇帝一家は死んでいない、など)。末娘アナスタシア皇女を名乗る女性(アンナ・アンダーソンなど)がヨーロッパ各地に現れ、世間の話題をさらうこともあった。一方、一家が殺害されたイパチェフ館は、モスクワの指令を受けたボリス・エリツィンにより、1977年に解体された(ロシア連邦大統領になった後に、彼はこの件について釈明し、謝罪している)。その後、1989年になって皇帝一家の遺骨が発見され、いったん埋め戻された。
1991年、ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことが正式に確認された。その後、改めて掘り起こされた遺骨のDNA鑑定を行うため、残されていた複数の資料との照合が行われた。その中には日本に保管されていた『大津事件血染めのハンカチ』も含まれていたが、サンプルの量が少なく、この資料からは血液型の判定までしか行えなかった。結局他の資料から遺骨がニコライ2世本人のものと判明。ロシア正教会は他のソビエト革命の犠牲者とともにニコライ2世とその家族を「新致命者」(殉教者の意)として列聖した。この列聖には、エリツィンの意向が働いていた。
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